2014年8月26日火曜日

写実性と存在感

土偶は人間を模した形をしているが、写実的な人間の形からは大きく離れている。人間を模しているが、写実的な人間の像を作ることを目的としていなかったのだろう。技術的な問題から美しい写実的な像を作ることは不可能だったかもしれないが、土偶のそれは写実性に興味のない造型であるだろう。しかし同時に、猿でもなく犬でも他の何者でもなく、人間を模したものであるという確信が持てるものだ。人間を象りながら、人間とある程度の距離を置いているのだ。


写実的な画像の描画が可能になった現代においても、多くのアニメは写実的ではない。やはりここで起きているのは技術的な問題ではないのだ。では何故アニメは写実性を持たないのだろうか。それは、存在感を持たせる為である。


存在感とは写実性に担保されるものではない。写実的であっても必ずしも存在感は得られない。むしろ、土偶やアニメといったものに存在感を与えるには写実性はむしろ有害であるだろう。土偶は偶像である。豊穣や子孫繁栄などを祈る為に崇拝したと言われている。いずれにしても、それは非日常にある存在である。土偶という精霊が「存在」するのは、その詳細を知り得ないからである。どのような姿形をしているのか、本当に豊穣をもたらすのか、そのようなことを知り得ないから存在する。アニメも同様の議論が成り立つ。詳細が「存在しない」からこそ、そこに存在感が現れるのだ。


もう一つの問題は、写実的であれば写実的であるほど、細部が要求されることである。より元となるものに近しい写像であるほど、小さな違いが大きな違和感になって現れる。この違和感とは存在感をかき消してしまうものである。

土偶やアニメが写実性をもたないのは、それによってのみ存在感があり得るからである。

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