2014年7月22日火曜日

知覚の諸問題


 
(SYNAPSEより)


Cognitive Neuroscience: The biology of the mind
Michael S. Gazzaniga, Richard B. Ivry and George R. Mangun
より5章Sensation and Perceptionの考察をまとめましたので、宜しければ。

文字認識とかでニューラルネットワークが使われますが、そこでのテクニックの多くは実際の人間の知覚を参考にしているところが多くあるのですね。

こういった認知科学の分野は、脳を分割していっても博物学的になるだけで面白い問題はないんじゃないかと思っていたんですが、意外と人間の脳というのは局所性があり、知能と「物質」を結びつけることができるようですね。

クオリアとかの主観的体験は観測することが出来ませんが、こういう機能論的な意味でのsensationを理解することはその礎になるのでしょう。



図表は全て上記論文より引用

2014年7月14日月曜日

マルチコアマシン環境における並列最良探索アルゴリズム

Best-First Heuristic Search for Multicore Machinesという論文をまとめたスライドです。

Ethan Burns, Sofia Lemons, Wheeler Ruml and Rong Zhou. (2010). Best-First Heuristic Search for Multicore Machines. Journal of Artificial Intelligence Research 39(2010) 689-743

内容は並列最良探索です。A*探索などの基本的な探索アルゴリズムを知っていることを前提としています。
よければどうぞ。



2014年7月12日土曜日

人工知能と生物知能

 人工知能と生物知能は何が違うのだろうか。Turing は『Computing Machinery and Intelligence』(1950)において計算機が考えることが出来るかを議論することはあまりに無意味だと主張した。Turingは人工知能の定義を「そのシステムが人間であると人間が判定すること」としてTuring Testを提案した。これは外系からシステムを観察するという点で認識論的・機能論的な立場に立った定義であるだろう。ここで人間に知能があるという前提があることにも注意されたい。しかしながら、そもそも人間に知能があるということはどう解釈されるのだろうか。


1. Turing Test

そもそも知能はどう定義されるのだろうか。Turing TestはAlan Turingが1950年に提案した人工知能の判定方法である。方法としては、判定者である人間が隔離された場所にいる人間と機械のそれぞれと自然言語での対話を行う。この時機械は人間であるかのように振る舞う。判定者が人間と機械の区別が出来なかった場合にその機械はテストに合格し、人工知能として認められる。
 
 しかしながらこのテストは様々な反論がある。例えば知能があるとはとても言えないシステムも真と判定されるという問題もあった。有名なものだとEliza Chat Botがある。面白いのでぜひ触ってみてほしい。このElizaを、知能だと思われるだろうか。もっとも重要な反論としては、Turing Testは、機械が自意識や認知能力がなくても知能であると判定しまうことがある。ここで「自意識や認知能力がある」とはstrong AIの立場に依る反論である(John Rogers Searle, 1980)。Searleは『Minds, Brains and Programs』(1980)においてstrong AIの立場を以下のように定義している。

「…強いAIによれば、コンピュータは単なる道具ではなく、正しくプログラムされたコンピュータには精神が宿るとされる」

 weak AIはそれと対象的に、自意識や認知能力ではなく問題解決器として定義される。Searleは前述の著書において、中国語の部屋という思考実験でstrong AIを不可能と示した。



2. 中国語の部屋

 中国語を理解できない人間を部屋の中に閉じ込める。外部とは遮断されており、唯一のやりとりは紙切れの交換で行われる。外から入れられる紙には中国語の文章が書かれているが、被験者は中国語を理解出来ないので、彼にはセマンティクスを持ったものとして認識されない。彼の課題はこの中国語の文章(彼にとっては意味のない記号列)に新しい記号を加えて外に戻すということである。ある記号列に対してどのような記号を書くかは部屋に置かれたマニュアルに全て書かれてある。

 実は外の世界では、この紙切れは部屋の中の彼への「質問」であった。そして部屋の中からは「回答」が返ってくるのだ。質問を投げる外にいる人間は、「中には中国語を理解する人間がいる」と考える。しかし中にいる彼は中国語など分からず、ただただマニュアル通りに、理解もせず、しかし外にいる人間は「対話」をしているのだ。

 さて、この思考実験が何をもたらすかを考えよう。
 まずこの中国語の部屋は人工知能のメタファーである。即ちマニュアルがメモリにあるコードで、何も理解せずにマニュアル通りに行動する人間がプロセッサ、紙の交換がI/Oに当たる。如何に機械が知能を持って見えたとしても、プロセッサとメモリそれぞれに知能はなく、受動的に行動するのだからstrong AIは不可能であるとSearleは主張する。weak AIは外系(即ち部屋の外の質問者)から見て知能を持って見えるものを知能と定義するので、中国語の部屋はweak AIの定義からは知能であるといえる。Searleはこの議論を持って人工知能と人間の知能は区別されるという。しかしながら、中国語の部屋の議論は人間おいては生物の知能についても同様の言及をすることが出来るだろう。
 

3. 生物知能

 生物に知能はあるのだろうか。あるとして、それはどういうメカニズムで生まれるのだろうか。まず、知能とは、心理学及びその周辺分野の研究者52人による『Mainstream Science on Intelligence』において以下のように定義されている。

A very general mental capability that, among other things, involves the ability to reason, plan, solve problems, think abstractly, comprehend complex ideas, learn quickly and learn from experience. It is not merely book learning, a narrow academic skill, or test-taking smarts. Rather, it reflects a broader and deeper capability for comprehending our surroundings—"catching on," "making sense" of things, or "figuring out" what to do.

 この定義は記述的であるが人間の「知能」をよく表していると言えるだろう。(ここで知能とは心理学者らのそれであることに注意されたい。)さて、では生物一般にこのような特徴はあるのだろうか。例えば大腸菌に知能はあるのだろうか。上の定義と照らし合わせたとしても、大腸菌の個体に知能がなくても、大腸菌の個体群もしくは生態系は知能があると言えるだろう。生物は進化というメカニズムで知能を実装している。人間などの脊椎動物は相互作用のある細胞(例えばニューロン)を多く一個体に含むためその知能を個体ベースで持っているだけだと考えることが出来る。
 大腸菌から人間まで同じ位相の「知能」を持っているとして、それをどう理解することが出来るのだろうか。先ほどの『Mainstream Science on Intelligence』は実はTuring Testと同様、機能主義的定義である。即ち、生物の知能も中国語の部屋と同様の議論が可能である。生物は外界からの刺激(紙切れ)に対して応答するが、それは「賢い」形態・行動ではなくただマニュアルに沿っているだけなのだと主張出来るだろう。

 ちなみに、マニュアルをゲノムや遺伝子に仮定することが出来る。この場合マニュアルは外界からの刺激によって書き換わるといえる。しかしそれも受動的なプロセスで、部屋の人間に依拠する知能は認められないだろう。同様の議論がコンピュータでも言える。



結句

 生物の知能と人工知能は同じ議論の下でしか定義することが出来ない。中国語の部屋の議論はstrong AIに対するアンチテーゼであるというより、strong intelligence一般に対するアンチテーゼである。転じて、生物に知能があると仮定すると、人工知能も知能があると言えるだろう。Turing Testとは、「人間に知能があるならば機械にも知能がある」という主張と考える方が厳密であるだろう。